【ズボラ新人キャスト・のん物語②】付け回しがビジネスおかまになる瞬間

ある夜の分岐点

忙しくなってくると、店の空気が変わる。
のんは、それを少しずつ、肌で分かるようになってきた。

スタッフの足が速くなる。
声が少し大きくなる。
インカムから、短い言葉が次々に飛んでくる。

「被ってる」
「マイナス出てる」
「一旦戻したい」
「フリー、今入った」

それを聞くだけで、
(今日は荒れる日だな)
と、分かってしまう。

怖いというより、緊張する。
呼ばれたらすぐ動けるように、自然と背筋が伸びる。

うちの店の付け回しは、仕事ができる。

判断が早い。
席の空気も読める。
売上の流れも、ちゃんと見えている。

でも、忙しくなると、
時々ちょっとだけ荒っぽくなる。

早口になる。
動きが大きくなる。
判断が秒単位になる夜ほど、余裕は削られていく。

──そして、その“余裕が一番削られる場所”が、待機席だ。

席が一段落して、
「やっと少し待機できるかな」
そう思った瞬間に、すぐ呼ばれる。

しかも、呼ばれる理由はたいていヘルプ。

待機しているのは、
今この瞬間、自分のお客さんを呼べていない子たちだ。

(またヘルプか)
(今日も流れ来てないな)

腰が重くなるのは、怠けているからじゃない。
気持ちの問題だ。

だからこそ、
この瞬間の“呼び方”で、空気は一気に変わる。

その日も、フロアは荒れていた。

満席に近く、被りが重なり、
抜き差しの判断が秒単位になっていた。

ようやく数人が待機に戻った、その瞬間。

付け回しが来た。

でも、席前じゃない。
お客さんの前でもない。

待機席で、だ。

付け回しは、少しだけ声色を変えて、
肩の力を抜いたトーンで言った。

「はい、可愛い子ちゃん達〜、行くわよ〜♡」
「ほらほら、付いておいで〜」

命令でもない。
急かしでもない。
でも、ユーモアだけはあった。

誰も突っ込まない。
誰も嫌な顔をしない。

「はーい」
「行きまーす」

当たり前みたいに、全員が立ち上がる。

のんは、その様子を少し後ろから見ていた。

もしここで、

「○○さーん!」
「○○!呼ばれたら早く来いよ!」

そんな呼び方をしていたら、
きっと足取りは、もっと重くなっていたと思う。

遅くなる。
顔に出る。
空気も濁る。

でも、そうはならなかった。

怒られていない。
詰められていない。
正論も言われていない。

ただ、
気持ちを切り替える“間”を作ってくれただけ。

その瞬間、のんは分かった。

この人は、キャストを動かしているんじゃない。
感情を動かしている。

あとで、のんは思った。

あれは、ただのノリじゃない。
ふざけているわけでもない。

あれは、
ビジネスおかまだ。

怒らず、
詰めず、
圧もかけず、

それでも、
腰が重くなる瞬間を、前に進ませるための“型”。

北風じゃなくて太陽。
命令じゃなくて空気。

一流の付け回しは、
キャストを回しているんじゃない。
店の“感情”を回している。

忙しい夜ほど、
正しさより先に必要なのは、
“切り替え”なのかもしれない。

その日から、のんは呼ばれたとき、
少しだけ声色を変えるようになった。

「行ってきまーす♡」

誰も怒られていないのに、
全員が動く。

その不思議が、
のんは少しだけ、好きになった。

👉 【ズボラ新人キャスト のん物語①】今日は、何も残らなかった夜

コメント