
忙しくなってくると、店の空気が変わる。
のんは、それを少しずつ、肌で分かるようになってきた。
スタッフの足が速くなる。
声が少し大きくなる。
インカムから、短い言葉が次々に飛んでくる。
「被ってる」
「マイナス出てる」
「一旦戻したい」
「フリー、今入った」
それを聞くだけで、
(今日は荒れる日だな)
と、分かってしまう。
怖いというより、緊張する。
呼ばれたらすぐ動けるように、自然と背筋が伸びる。
うちの店の付け回しは、仕事ができる。
判断が早い。
席の空気も読める。
売上の流れも、ちゃんと見えている。
でも、忙しくなると、
時々ちょっとだけ荒っぽくなる。
早口になる。
動きが大きくなる。
判断が秒単位になる夜ほど、余裕は削られていく。
──そして、その“余裕が一番削られる場所”が、待機席だ。
席が一段落して、
「やっと少し待機できるかな」
そう思った瞬間に、すぐ呼ばれる。
しかも、呼ばれる理由はたいていヘルプ。
待機しているのは、
今この瞬間、自分のお客さんを呼べていない子たちだ。
(またヘルプか)
(今日も流れ来てないな)
腰が重くなるのは、怠けているからじゃない。
気持ちの問題だ。
だからこそ、
この瞬間の“呼び方”で、空気は一気に変わる。
その日も、フロアは荒れていた。
満席に近く、被りが重なり、
抜き差しの判断が秒単位になっていた。
ようやく数人が待機に戻った、その瞬間。
付け回しが来た。
でも、席前じゃない。
お客さんの前でもない。
待機席で、だ。
付け回しは、少しだけ声色を変えて、
肩の力を抜いたトーンで言った。
「はい、可愛い子ちゃん達〜、行くわよ〜♡」
「ほらほら、付いておいで〜」
命令でもない。
急かしでもない。
でも、ユーモアだけはあった。
誰も突っ込まない。
誰も嫌な顔をしない。
「はーい」
「行きまーす」
当たり前みたいに、全員が立ち上がる。
のんは、その様子を少し後ろから見ていた。
もしここで、
「○○さーん!」
「○○!呼ばれたら早く来いよ!」
そんな呼び方をしていたら、
きっと足取りは、もっと重くなっていたと思う。
遅くなる。
顔に出る。
空気も濁る。
でも、そうはならなかった。
怒られていない。
詰められていない。
正論も言われていない。
ただ、
気持ちを切り替える“間”を作ってくれただけ。
その瞬間、のんは分かった。
この人は、キャストを動かしているんじゃない。
感情を動かしている。
あとで、のんは思った。
あれは、ただのノリじゃない。
ふざけているわけでもない。
あれは、
ビジネスおかまだ。

怒らず、
詰めず、
圧もかけず、
それでも、
腰が重くなる瞬間を、前に進ませるための“型”。
北風じゃなくて太陽。
命令じゃなくて空気。
一流の付け回しは、
キャストを回しているんじゃない。
店の“感情”を回している。
忙しい夜ほど、
正しさより先に必要なのは、
“切り替え”なのかもしれない。
その日から、のんは呼ばれたとき、
少しだけ声色を変えるようになった。
「行ってきまーす♡」
誰も怒られていないのに、
全員が動く。
その不思議が、
のんは少しだけ、好きになった。


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